COLUMN

コラム

『声が持つ社会的責任』

今週は金曜まで梅雨らしい天気になるそうです。植木たちの水やりも少しだけお休みさせてもらいます。

さて、私のオンラインサロンの映像カメラマンさんによりますと、私の司会進行の特徴は「内容によって声の表情を変えられること」と言っていただきました。

当たり前だと思っていたことが、実は強みだったんですね。この気づきについて、最近「そういうことか」と、お客様から少しだけ喜んでもらったことがあります。

あるコンサート。機材のトラブルで、曲目や出演者が変わります。お客様が納得してくれるかどうか。主催者の方の不安はどことなく感じていました。また、シナリオにもそのようなことが書かれていました(お詫び文)。
主催者様が作成した文章が素晴らしかったからこそ、私の謝罪も納得いただいたのですが、
終ってから「お詫びの心が伝わりました」というお声をいただいたのです。

主催者の立場に立つというとかっこいいですが、どことなく「憑依=共感」しているような不思議な感覚にさえなります。基本はシンプル。「相手の立場に立つ」。

共感とは、相手の感情や立場を理解し、その内側で感じる力です。
心理学者カール・ロジャーズはこれを「相手の内的世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じること」と表現しています。ただ、ここで大事なのは「自分自身のものとして“なりすぎない”こと」も同時に強調しています。
私が言う「憑依」は、この定義とぴったり重なります。ただし、そこには重要な境界線があるんですね。
次に似ている言葉で同調があります。
同調は、相手の感情に流されて“自分の感情”として取り込んでしまうこと。結果として、自他の区別が曖昧になり、冷静な判断やバランスの取れた表現が難しくなることがあります。相手の感情に流されてしまうということです。
司会を例にとると・・
同調は観客が動揺している → 司会者も不安そうになってしまう
共感は観客が動揺している → 司会者はその感情を理解しつつ、安心感を与える言葉で場を包む。
つまり、憑依とは「乗り移ること」ではなく「共感=こころに同席させてもらうこと」。さらに深く掘り下げますと、共感とは「感情を理解すること」ではなく「感情の通訳になること」かなと。

NHKの音楽コンクールでのこと。司会の実績に自信のある私(当時は慢心の極みでした)は、コンクールで優勝したチームの喜びに同調して、やや声を張り「おめでとうございます!」と声をあげました。
終ってから意気揚々としている私に、ディレクターが駆け寄り「負けたチームのことも配慮しなければいけないよ」と。
この言葉を夏の音楽コンクールシーズンになると思い出します。

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